天草下島の最南端に位置する牛深町に空き家を活用しためいどサロンときわ屋があります。
ここでは、日本の港踊りの源流といわれる牛深ハイヤ踊りの体験ができます。
近くには、明治時代に日本初の女医となった宇良田唯さんの家もあり、牛深の女性のパワーがみなぎる接待所です。
ハイヤ踊りを体験する
牛深ハイヤ踊りは、元々南風と書いてハイヤと発音するように、南方からやってきた踊りといわれています。
南方とは、薩摩、琉球、台湾の方からということで、民俗学の研究をしている学者によると台湾の部族の踊りとも似ているともいいます。
元ハイヤは、沖縄のカチャーシーという型がない踊りとリズムや手ぶりもよく似ています。
何はともあれ、ここではだれでも自分流に楽しくハイヤを踊ることができます。
極上のかまぼこを頂く
牛深の特産品といえば、雑節にかまぼこです。雑節とは、かつお節と同じですが、様々な魚の燻製が混ざっているため雑節といいます。
料理の出汁に使われる原材料ですが、日本での生産量が一番多いのが牛深です。
また、かまぼこも絶品で、ときわ屋では、お茶と一緒にかまぼこが出てきました。
お酒と一緒に牛深のかまぼこ食べて、ハイヤを踊ると最高にいい気分になります。
ハイヤ節の歌詞に
♪ハンヤで半年ゃ暮らすエー 後の半年ゃ
サーマ 寝て暮らすエー♪
♪エーサ 牛深三度行きゃ三度裸
鍋釜売っても酒盛りゃしてこい♪
天草の漁師町ならではの風情を感じますが、命がけで漁に出て生計を立てる漁師さんたちの意気込みを感じます。
牛深は、そんな漁師さんたちが獲ってきた魚で栄えた漁師町です。
牛深出身の偉人「宇良田唯(うらただだ)」
牛深を訪れたら決して忘れてはならない女性がいます。それは、明治時代に日本で最初の女医となった宇良田唯さんです。
めいどサロン吉野屋から歩いて5分のところに、宇良田唯さんゆかりの家があります。
1873年(明治6年)5月3日生れで、ドイツの医学士号「ドクトル・メディツィーネ(Doctor medicinae)」を日本人女性として初めて取得した人物です。
日本国内外で活躍し、特に中国の天津では25年にわたって総合病院を営みんで]、長年にわたって貧富を問わず、病気に苦しむ人々を助けました。その一方では、女性の地位が低いとされた時代に、その立場に悩み、また自分を支えてくれた父や夫を喪うなど、波乱に満ちた人生を送った方です。
牛深という天草の片田舎かから、日本で最初の女医が誕生するのは意外なことですが、洋の東西を超えて、年代を超えて、人を思う天草の人の優しい心は昔からずっと根付いていました。
そこにあるのは天草の心
ときわ屋からほど近い牛深歴史・民族資料館の2階に軍艦長良の記念館があります。
戦時中、沖縄と長崎の間を行き来していた長良は途中牛深に寄港し、北陸や京都出身者が多い船員たちは牛深の人達と親しくしていました。
しかし、長良は昭和19年8月7日、牛深沖の西約10kmの海上で、米潜水艦「クローカー」の魚雷により撃沈されました。洋上で長良が沈没していく様子を見た牛深の漁師たちは、次々と救出に向かい、海に飛び船員たちを救いました。
583人のうち235人は助けられていましたが、残り348人は長良と共に海底に沈みました。
その後、佐々木ツルさん(1988年没、享年88歳)は、故郷牛深のボラ山という小高い丘に、魚の行商で得た浄財を擲って昭和45年に“軍艦長良慰霊塔”を建立しました。
遠方に実家がある戦死者たちを一人でひそかに弔い続ける佐々木鶴さんの慰霊活動は、やがて地元天草の作家島一春氏の知るところとなり、その著書“天草灘に響け鎮魂の譜”(熊本日日新聞社刊)によって広く世に知られました。
時代を超え、慎ましく人を労わる天草の心がそこにあります。
情が深い牛深の女性たち
2013年に大竹しのぶさん主演のワッゲンオッゲン「女たちの都」という映画が制作されましたが、かつて賑やかだった漁師町の牛深が衰退していく姿を何とかしなければと牛深の女性たちがまちおこしをしていくドラマでした。
めいどサロンときわ屋もまったく同じ精神で、牛深の婦人会の人たちが空き家を活用して、天草を訪れた人たちに喜んでもらいように真心こめてご接待をしています。
このような接待所は、天草観光の中ではこれまでなかったもので、既存の観光客は良い意味で「知らなかった!」とショックを受けるでしょう。
めいどサロン吉野屋と同様に「めいどサロン」という名がついているのは、地元の高齢者が主体となった地域づくりだからです。