第5番 高浜焼寿芳窯

由美かおるさんと後は井上陽水さんの絵付けした皿

天草陶磁器は、日本一といわれる良質な天草陶石を使って焼かれる磁器と、地元の陶土を使って焼かれる陶器です。磁器は約340年前に、陶器は約250年前に焼き始められました。純度の高い良質な天草陶石を使った透明感のある磁器や、性質の異なる釉薬の二重掛けの技法を用いた海鼠釉や黒釉の個性的な陶器が多く作られています。

瀬戸民吉と天中和尚

天草陶磁器は、日本一といわれる良質な天草陶石を使って焼かれる磁器と、地元の陶土を使って焼かれる陶器です。磁器は約340年前に、陶器は約250年前に焼き始められました。純度の高い良質な天草陶石を使った透明感のある磁器や、性質の異なる釉薬の二重掛けの技法を用いた海鼠釉や黒釉の個性的な陶器が多く作られています。

ここが本家本元の窯元

 瀬戸焼の元祖加藤民吉は享和元(1801)年9月、修業の労苦を重ねついに盃、小皿、箸立など小品ではあるものの染付磁器の製造に成功ししました。
 しかし素地や釉薬などまだ問題点は多く、肥前のような磁器は焼くことができませんでした。
 このため、享和4(1804)年民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立ちました。
 天中和尚は、民吉のためにと懇意にしていた高浜の窯の経営者上田宜珍を紹介しました。本来、窯の製法は秘伝でしたが、上田宜珍は、必死で学びとろうとする民吉の熱意に打たれ、秘伝を伝授しました。
 やがて、民吉は、文化4(1807)年瀬戸に戻り、有田に遅れること約200年、民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し発展しました。

自分流の絵付けをする

絵入れ作業
完成した作品

天草の陶磁器の純度は最高品質といわれ、有田焼や伊万里焼の原材料は天草陶石を使っています。
 私たちが日常使っている陶磁器は、ほとんど業者が製造したものです。
 一般人にとっては、自分で使う茶わんや皿を自分で作る機会はほとんどありません。
 しかし、高浜焼寿芳窯では、自分自身で陶磁器の絵付けを体験することができます。
 描くのは、文字だけでなく、絵柄などイラストも自由に描けますが、はじめたの方のためにイラストのサンプルも置いてあるので安心です。
 普段は、当たり前に使っている陶器類ですが、現在まで発展するまでに長い時間をかけて、多くの人たちの努力があったことを感じさせてもらえる体験です。
 のさりの島巡りは、様々なのさりに感謝して巡る、古くて新しい、天草の旅です。

明治の文学青年たち

五足の靴

 天草を訪れた明治時代の文学青年が綴った「五足の靴」という話があります。
 五足の靴は、与謝野寛が、まだ学生の身分だった太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した記録、紀行文で、明治40年(1907年)に発表されました。
 彼ら5人が天草に訪れた理由は、当時、カトリック大江教会と崎津教会を兼務していたガルニエ神父に会うためでした。
 ガルニエ神父は、フランスの不自由ない洋服店の倅でしたが宣教師として天草へ訪れた時、貧困にあえぐ不遇な住民のため永住を決意し、一度もフランスに帰ることなく私財をかけて教会と子供の教材や孤児院、医薬品など調達し、福祉活動に尽力しました。
 そんな奇特な神父に会ってみたいと、東京から天草を訪れたのでした。その後、彼らは何度も天草を訪れその作風に大きな影響を与えたといいます。高浜焼寿芳窯のすぐ隣には、上田庄屋屋敷が記念建物として遺っています。

上田庄屋の記念建物
上田家に宿泊した与謝野鉄幹と与謝野晶子夫妻

天草のスケールを感じる屋敷

赤崎伝三郎の家・白磯


 高浜焼寿芳窯より歩いて2~3分の場所に、赤崎伝三郎の屋敷で、元の白磯旅館があります。
 明治4年(1871年生)赤崎家当主であった赤崎伝三郎は、30代前半に上海などを経由して、マダガスカル島北部にある軍港ジェゴスアレスに渡りました。質素な設備で始めた酒場は、多くのフランス軍兵隊で賑わいを見せていましたが、明治37年暮れ、この島にロシアのバルチック艦隊が姿を現しました。
 日露戦争における日本海の制海権を奪うため極東に向かう途中でした。38隻の大艦隊を見た伝三郎は驚嘆し、また祖国の運命もはや風前の灯かと嘆かずにはおられず、 即刻インドのボンベイの日本大使館に電報を打ち、命懸けの情報提供をしました。アフリカの一日本人の国難を救おうとした愛国心は、日本海軍に大きな感動を与え、戦争終了後、海軍から伝三郎へ感謝状が送られました。
 明治のはじめにすでにアフリカでレストランを経営していた赤崎伝三郎の和洋折衷の屋敷が、このすぐそばで見れます。

アジアに目を向けていた天草の先人たち

松下光廣翁

 マダガスカルへ出稼ぎにいった赤崎伝三郎を慕い、明治45年15歳の若さで当時の仏領ベトナムへ渡り、同国の発展と独立に多大な貢献した松下光廣という人がいます。
商社として成功した松下光廣さんはベトナムで稼いだお金はベトナムに還すという信念のもと、ベトナムがフランスの植民地となっていた当時、ベトナム王国のクオンデ国王の暑い信任を受けて国民を鼓舞し、私財を投じて民兵を組織し、ベトナムの独立に尽力しました。
 その甲斐あって、ようやくベトナムがフランスから独立しようとしたのも束の間で、今度は米国とソ連のベトナム戦争という悲劇に見舞われます。
 アジア人も日本人も同胞で兄弟姉妹だという思いは、やはり天草人のDNAです。

⇒第6番 真田十八屋敷