慶安元年(1648)初代代官鈴木重成の保護の下に創建され、長崎皓台寺の住職一庭融頓禅師を開山として迎え、天草四ケ本寺の一つとなり、末寺・末庵を持ちました。
國照寺は、本町の東向寺と並ぶ曹洞宗の本寺です。
この寺院には、鈴木重成公が天草へ赴任する前の大阪の上方代官時代に隠田事件で亡くなった百姓を兄の鈴木正三公と弔らうため建立した一仏二十五菩薩像があります。
ここの庭園は広大な寺域の中に自然の美を巧みに生かした禅庭園で、天保九年(1838)完成し、阿弥陀如来と二十五菩薩像と共に苓北町指定文化財となっています。
天草島原一揆後初代代官として赴任してきた鈴木重成公が大阪の上方代官時代、隠し田(今で言うところの脱税)が露見し、数十人の死刑が確定するところを重成公の必死の働きにより、女囚の助命を伏見奉行に直訴したといわれています。
ここには阿弥陀如来像と二十五菩薩は、その時処刑された男囚の霊を弔うべく彫ったものです。
由美かおるさんと國照寺保育園の子供たちです。あどけない子供たちとのほのぼのとした様子に思わず笑みがこぼれます。
天草を復興した鈴木兄弟
元々三河武士で、戦国時代より徳川家の家臣として仕えていた鈴木家は、二代将軍秀忠と戦地を共に闘ってきた鈴木正三公と、その弟重成公、そして息子の重辰公は、将軍家の信任が厚く、天草島原一揆後、荒廃した天草を復興する任を当たりました。
しかし、一揆により人口が激減した天草島の再興は困難を極め、一揆の主因とされる高すぎる石高を下げるため、鈴木重成代官は十三年の在任中、幕府に対して石高半減を訴え続けたのでした。
結果として、鈴木重成公の嘆願は、死後7年目にして幕府に受け入れられ、息子の重辰公の時代に、石高半減となり、島民の暮らしは、とても楽になりました。
鈴木家のご先祖は、徳川家康公が最も尊敬する武将として崇める鎌倉時代の名将楠木正成公の娘が嫁いだ家柄で、民の安寧のために命を賭することも厭わない家風で育ったこともあり、鈴木重成公は天草の人たちの苦境を救うために尽力した生涯でした。